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亀井?矩公の歴史

亀井玆矩とは

亀井?矩公 1557(弘治3)年出雲の湯ノ庄(玉湯町)で生まれ、尼子の家臣湯左衛門尉永綱を父とし湯新十郎と名乗ります。1572(元亀3)年まで旧臣の家で養われ、同年末に出雲を去って因幡の山宮(気高町)の井村覚兵衛の所に身を寄せました。翌天正元年夏尼子勝久・山中幸盛らの因幡進攻を知り、桐山城(岩美町)に幸盛を訪ねて、これ以後は幸盛とともに戦います。天正2年2月若桜谷の矢部行綱を討ち、4月中旬幸盛の養女時子(亀井能登守秀綱の二女・幸盛の妻の妹)を妻にして亀井の家を継ぎます。茲矩の諱は初め之子また眞矩といい、字は長卿です。


亀井氏の時代

 1581(天正9)年10月25日鳥取城落城によって、羽柴秀吉は亀井新十郎茲矩に気多郡13800石を与え、鹿野城主としました。これから鹿野での亀井氏の時代が始まります。
 茲矩は1600(慶長5)年の関ケ原の役には東軍に組して、高草郡(鳥取市西部)24200石を加封され3万8千石となりました。1609(慶長14)年正月3日茲矩は隠居して、家督を政矩に譲りました。この年政矩は伯耆国久米・河村両郡(東伯郡)の内5千石加封され、亀井家の所領は4万3千石になりました。1612(慶長17)年正月26日茲矩は鹿野城で病没(56歳)しました。1617(元和3)年7月石見国津和野(島根県)に転封の幕命が下り、政矩は8月13日津和野城に入りました。
 亀井氏の時代は天正9年から元和3年まで37年間、亀井茲矩・政矩父子による統治の時代が鹿野の歴史の中で一番輝いた時代でした。


新田開発など

日光池の干拓碑 茲矩は領内を豊かにするために干拓や用水路などの工事を積極的に行っています。1588(天正16)年の日光池の干拓はその代表的なもので、2月7日の起工には茲矩が自ら鍬を取って池尻を3度打って、その鍬を下坂本の庄屋に下げ渡し、庄屋がその跡を5鍬打ってそれから役夫ら一同が川筋を掘り、夜を日についで工事を急ぎ、川筋を堀り、山を切り崩して埋土とし、海に掘り通したので満々とした水は日々に減じたと伝えられています。この工事は6カ月ほどで終わり300石余の良田を得ています。
 また内海は中世から気多郡に入っており、亀井茲矩のころも気多郡だったようです。このころ内海の谷口は岩石が壁のように連なり御熊谷の流れを湛えて池になっていましたが、茲矩が岩石を切り落としたので谷水は一時に流れ出て、その跡は新田となった、と伝えています。切り開いたのは身干山の東南麓で約12m切り落とされています。この干拓で得た新田は約25町歩といわれています。
 高草郡が領地になると、湖山池の干拓を計画し伏野(鳥取市)の浜近くの長者屋敷のあたりの砂を掘りあげて水路を造ろうとし、気多・高草両郡の百姓に出役を命じましたが、掘りあげた砂がたちまち崩れるという難工事でした。ようやく完成して池の水を水路に流しましたが、海面との落差が少なくて池の水は減りません。そのうえ風が少し吹くと水路は埋まってしまうという有様でした。そこで更に東方に一水路を掘り水を賀露(鳥取市賀露町)の南端に流す新川を掘りましたが、これも落差が少なく布勢天神山付近から山王山西麓で約10町歩余の田圃を得ただけでした。
 このほか勝見・青屋・養郷など各地の開拓も行いました。


日野の銀山と鉄穴流し

 1595(文禄4)年卯月(4月)3日付の豊臣秀吉の朱印状があります。これには、西伯耆の日野の山で銀山を発見したことをほめて、早く掘り出して差し出すよう命じています。(『亀井文書』国立歴史民俗博物館蔵) この日野銀山の経営は翌文禄5年には西伯耆3郡の領主吉川広家に移されています。
 また、領内でも河内(鹿野町)に鳩林山という金山があったといわれていますが、はっきりしたことは分かりません。「…因幡の国鹿野河内鳩林山は、初めて金銀湧出した所である。末代まで富貴のもとになる、日本第一の宝の山である。予子孫繁昌之国…」と記された亀井茲矩の願文が『亀井文書』(国立歴史民俗博物館蔵)にあります。
 また「鉄流しの流し口はどれだけできたのか、どれほど採取できるのか…」と1594(文禄3)年3月14日国元の多胡宗治右衛門に宛てた長郷(茲矩)の手紙があります。さらに「国元では砂鉄流しの場所を見立てて掘らせているので…」という栗町新右衛門に宛てた2月4日の手紙もありますが、亀井武蔵守茲矩の署名から天正13年以降と考えられます。これらは亀井家の『家記稿本』の「鹿毛筆の跡」に載せられています。このように亀井領では鉄穴流しを行って砂鉄を採取していたことが分かります。


産業の振興

 茲矩は産業の開発や振興に力を入れています。領内の広大な山地に目を向け、「村々切らざる木」の掟を定め、桑の木・漆の木・雁皮の木・桐の木・柿の木・榧の木・楮・椿の木・ちなひの木(エゴノキ)・あさかひの木(タブノキ)・山椒の木の11種を切らざる木として定め、栗の木や竹を大切にさせています。これは1596(文禄5)年2月4日付で村々に触書として出されたもので、気多郡八葉寺村(青谷町)百姓の所持と『稲場民談記』に記されています。
 「亀井文書」の中に紙屋村(青谷町)に宛てた触書があります。これは「元武公(茲矩)手跡」として扱われ『道月余影』(明治45年2月10日発行)巻頭グラビアに掲げられています。
 これには「竹木山林の盗伐を禁じ、もし盗伐する者があれば捕えて鹿野に差し出すことを命じ、盗伐した者が知人で、これを見逃した者があれば、その者も調べて罰すること」とあります。
 薩摩(鹿児島県)から杉苗を取り寄せて鷲峰山に植えさせるなど、林業の保護育成につとめる一方、海外貿易で持ち帰らせたシャム(タイ)の稲・生姜や、明(中国)の茶・薬草などの栽培を進めるなど領民の生活を豊かにするための努力を重ねました。
 鹿野笠の名で知られる鹿野町特産の菅笠も、農家の副業として茲矩が作らせたといわれています。畜産では湖山池の青島で驢馬・野牛を放牧し、長尾岬でも馬の放し飼いをしたといわれています。
海女 夏泊(青谷町)には海女による漁法が伝わっています。茲矩は文禄の役で梶免村(福岡県)の助右衛門(漁夫)を召して士分にし、水先案内をまかせました。朝鮮から帰国した助右衛門は一旦梶免村に帰ったのち家内と共に鹿野町の茲矩を訪ねました。茲矩は、西は潮津浜(青谷町)から東は長尾境(青谷町・気高町境)までを漁業の場所と定めて、夏泊に居宅を建て与え夏泊8町四方を御免地(無税地)にしました。この助右衛門が夏泊の開祖ですが、妻はもぐりの名人で村の女達にもぐってのアワビ・サザエ・イガイなどの漁法を教えました。しかし最近は海女を家業とする人は少なくなっています。
 因鹿焼という陶器が鹿野で作られていました。これは文禄の役で朝鮮に出兵した茲矩が帰国するとき、陶工を連れて帰って城中に窯を築いて焼かせた御庭焼だといわれます。しかし残っている菓子皿を見ると歪みがあり、これは陶土の良質なものが得られなかったのか、窯が良くなかったのかその原因は分かりません。2点の扇形の菓子皿を前にした所有者だった故安富寛兵衛翁の話を記しました。


敬老会

 茲矩は気多・高草両郡の60歳以上のお年寄りを城内に招いてもてなし領民から非常に喜ばれたといわれます。それは城内に大きな建物を建てて会場とし、酒や立派な料理をたくさん出して町内の年若い娘に給仕をさせて十分に飲み食いをさせました。そのうえ何でも1俵という空くじなしのお土産の福引があって、米・麦・大豆・小豆・粟・稗が賞品で、米1俵を引き当てて喜ぶ者、稗1俵引き当てて少々落胆する者など喜悲こもごもだったようです。
 また茲矩は城下の町々を常に早朝から見廻っていましたが、鍛冶町の貧しげな鍛冶屋がいつも早暁から起きて妻と共に働いているのを見て、奇特な鍛冶屋であると褒美に米2石を与えました。これを見た他の鍛冶屋が急に早朝から精を出して仕事をするようになりますと、茲矩は善い行いを真似るのは良いことだといって真似鍛冶と名付けて褒めたといわれています。


大井手用水路

 茲矩が1600(慶長5)年の関ケ原役の戦功によって加封された高草郡は、灌漑用水が不安定でときに干害に苦しみ畑地や荒地も多く見られたことから、茲矩は大規模な水路の開設を計画していました。
 一方鳥取城主池田備中守長吉は領内に良港がなく、千代川の河口の賀露を港として使用することを望んでいました。
 そこで河原(河原町)に水源を求める茲矩と、賀露を港として使いたい長吉との間に交渉があって池田領の八上郡の内(布袋・長瀬・一木・引田・中嶋)高1046石8斗2升5合の土地と、亀井領の賀露の半分(詳細不明)との交換が成立しました。
 茲矩は慶長7年から大井手用水路の開設に取組み、千代川の川筋に取水堰(智頭川と八東川の合流点の上約1km)を設けて水源とし、水路は河原から江津・秋里・湖山に及ぶ約20km余で灌漑面積は約千町歩に及び、施工には7年の歳月を要したといわれます。

【鳥居の再建】
 気高町山宮(田仲)の亀井茲矩墓地の鳥居は鳥取大地震で倒れ修復されていましたが、再び倒壊していました。墓参りをした飴野理事長(大井手土地改良区)が亀井茲矩の大井手用水開鑿の大恩に報いるためにと鳥居再建を発議し、理事会・総代会の議決・承認を得て亀井茲基(亀井家当主)の承諾を得、大井手土地改良区が特別事業としてこの鳥居を再建し、平成5年9月26日新しい鳥居の前で竣功祭、続いて墓前で奉告祭が行われました。


朱印船貿易

 『道月余影』には、茲矩は琉球を征伐しようとして許されず、考えを変えて海外と通商しようとし1607(慶長12)年8月15日朱印状を受け、庶子鈴木八右衛門を異国回船売買の総奉行として長崎に派遣し、大船を造って家臣の多賀是兵衛・塩五郎太夫・梶屋弥右衛門らに気多・高草の漁民を船夫として付け、代わる代わる渡航させた、と記されています。この慶長12年の西洋行に続いて、慶長14・15年の暹羅(タイ)行の2通の朱印状が下付されています。
 貿易品として刀剣・金銀の細工物・蒔絵の道具などを買入れて輸出し、絹織物・毛織物・動物の角や毛皮・象牙・珊瑚・香木類・白檀・黒檀・紫檀などを輸入しています。また驢馬・野牛(水牛?)を船に乗せて帰り湖山池の青島に放したところ、寛永のころまで生きていたといわれます。稲・生姜も持ち帰らせて栽培させています。茲矩は朱檀・黒檀・白檀・花櫚(しゅろ)など珍しい材で城中に御殿を建てましたが、移封の後1629(寛永5)年に焼失しています。
 亀井武蔵守茲矩の朱印船貿易はこの3回だけでなく、さらに雄大な計画があったことが伺えます。それは長崎の塩五郎太夫に宛てた慶長13年4月4日付の手紙に、長崎で黒船成(西洋型帆船)の60万斤(約260t)積の船を造り、赤土を塗って赤船に仕上げたいこと、この船の材は薩摩の島津右馬頭殿に約束を取り付けたこと、上手な船大工を調べておくことなどが記されていますが、この黒船成の60万斤積の船が造られたかどうか分かりません。どうも計画だけに終わったように思われます。
 それは慶長15年3月3日付の暹羅の握浮純廣(日本人町の頭領)から、亀井武蔵守茲矩に宛てた書簡(「亀井家文書」国立歴史民俗博物館蔵)に、頼まれていた80万斤(約350t)積の船は買えなかったこと、代わりに小型の船を買い上げたこと、この小型の船は暹羅で一番良い船であること、来秋はこの船で渡航することを勧めていることから察しられます。ところが慶長14年9月、幕府は西国諸大名所持の500石以上の船の没収・破却を命じ、翌15年淡路島沖で大船を破却させたといわれます。このため諸大名の朱印船貿易は出来なくなりました。


鹿野城の築城(改築)

 鹿野城は鹿野町鹿野の御城山・本丸・二の丸にあり、御城山(妙見山150.3m)の山頂部を中心にした山城が鹿野城でした。関ヶ原の役後所領も約3倍になり、家臣も増えましたので城を増築する必要に迫られていました。慶長9年ごろには諸大名が競って築城を始める状況があり、そのうえ長い間願っていた出雲への復国の見込はなくなり、鹿野に永住の覚悟を決め城の築城に取り組みました。

【流し山】
 鹿野の南2kmばかりの岩見谷より出る谷水を上・中・下3段に井手を掘って流したので、城山と流し山との間が突っ切れて左右に遠く分かれた、といわれています。これは城の南が峰続きで敵に攻められやすかったのを防ぐためでした。

【河川の改修】
 茲矩は鹿野の周辺の水谷川・末用川の流路を大幅に変更して城の外郭を整備しています。
 まず城の東を流れる水谷川は、口水谷の集落の前あたりから真北に流れ、今の鹿野中学校のあたりから90°左に曲がって山根町裏(伊木の堤のあたり)を流れて右折して北に流れて河内川に注いでいたのを、ほぼ北に直流させて河内川に流れ込む形に改めて、城と町を守る第2の防御線としました。
 さらに末用川が紺屋町の北から瑞穂谷に向かって河内川に合流していたのを、広木を流して上光元の西の山際を通って土居の下で河内川に合流する現在の形に改めて第3の防御線とし、宿の志加奴神社の裏山に駒ケ坪城(出城)を築城しています。

【城の増改築】
 昔からの山頂部分は天守曲輪を中心にして二重の総石垣造りに改められ、天守は三重だったと伝えられています。また城山神社の一段下(西の丸)といわれる所に8間×7間半の本瓦葺書院造りと考えられる建物の礎石配置がありますが、山城部にある殿舎書院跡が見つかったのは鳥取県ではこれが初めてといわれています。
 山麓には新しく石垣を築いて本丸・二の丸を築き、外堀・内堀・薬研堀を巡らしました。二の丸は旧水谷川の河原に土を盛り上げて造成され、その両側はさらに掘り下げられ内堀・外堀になりました。そうしてこの山麓の新城に藩政機構を集中して領国経営に当たったようです。現在グランドになっている本丸の東半分から出土した瓦には厚手で大型の物が多く、大広間・中小広間などの御殿が建てられていたと推測されます。


鹿野の城下町

 鹿野の城下町は妙見山山麓にあり、河内川・水谷川に挟まれ両河川を総構えとするかたちで存在し、城を囲む堀(内堀・外堀・薬研堀)は水谷川の水を引いており、城下町の飲料水・日常用水もこれが利用されました。
城下町 侍屋敷は殿町・御茶苑・堀端・茶苑小路一帯の城の周辺の地域に配置され、その外側に町屋を置きました。町名は紺屋町・上町・竪町・殿町・下町・鍛冶町・山根町・大工町ですが、『鹿野故事談』にはこのほか津山町・八日町・新町・魚町・茶園町・河原町・スヤマ町・呉服町・ノボリ町・本町・油魚町の町名が記されています。このうち茶園町は茶苑小路付近、河原町は紺屋町から雲龍寺に至る道路の南側、魚町は下町北側の北にあったといわれています。今も職人町の紺屋町・鍛冶町・大工町の名が残り、城下町特有のT字路・L字路が各所に残っています。
 茲矩は鹿野の各地に仏跡にちなんだ名をつけています。それは鹿野を鹿野苑・大改築した鹿野城を王舎城・鷲峰山を鷲峰山・古仏谷の城を拘尸那城などです。川の名前も流沙川・跋堤川・恒河と呼んでいます。


亀井領の詳細

 亀井茲矩の所領は気多郡13800石、高草郡24200石、合わせて3万8千石といわれるだけで、その村名や石高は分かっていませんでした。『因幡国気多郡・高草郡帳』慶長十年九月日(鳥取県立博物館蔵)が発見され、これには気多・高草両郡の郷村高・郷村名・田の面積・圃の面積・物成高が記載されている貴重な資料です。ただ村ごとの記載でなく郷村名(数か村を合せたもの。上勝見・下勝見・光本・小畑河原など)で書かれています。
 これには気多郡の惣高合17240石5斗4升とありますが、この内には江戸時代に高草郡になった内海・沢見(高611石8斗7升5合)が入っています。また高草郡の惣高合21255石4斗5升2合とあって、この内に大井手用水路に関係する八上郡の布袋・長瀬・一木・引田・中嶋(高1046石8斗2升5合)が含まれています。
 一方池田長吉領になったといわれる賀露の半分はこの布袋などと同じ1046石8斗2升5合と推測されますが、詳細は不明です。
 亀井政矩が慶長14年に拝領した伯耆国河村郡内3450石並びに久米郡内1550石も詳細は不明でした。『因幡国之内気多郡・高草郡帳・伯耆国之内河村郡之内・久米郡之内帳』慶長十八年癸丑四月十四日(国立歴史民俗博物館蔵)が発見され、これらよって伯耆国の河村・久米両郡内での亀井領の詳細が明らかになりました。
 河村郡は17か村で高3458石9斗2升6合。久米郡は7か村で高1550石6斗4升4合。両郡合わせて5千石となっています。


玆矩の死去

 亀井政矩はこの年4月に将軍秀忠の命によって丹波国篠山の城主松平周防守康重(5万石)の娘休子と結婚し、この年伯耆の久米・河村郡の内5千石を与えられました。
 茲矩は慶長16年の秋鹿野城中で病を発し病床に伏しますとしだいに重くなり、医師の懸命の手当ても僧侶や神官の加持祈祷もむなしく、故郷出雲の領有や琉球・暹羅への図南の夢も果たしえないで、1612(慶長17)年正月26日王舎城で病没しました(56歳)。
 茲矩の法号は中山道月大居士で、遺骸は茲矩の遺言によってゆかりの地田仲の名字ケ鼻(武蔵山)に葬られました。


政矩の襲封

 政矩は初め幸高といいのちに政矩に改めています。幼名は大昌丸で通称は新十郎といいました。
 1602(慶長7)年政矩は初めて家康に御目見えし(13歳)、同9年従5位下に叙され右兵衛佐に任じられました。翌年には豊前守に任じられ、初め家康に仕えのち秀忠の側近として仕えました。
 慶長17年正月26日茲矩の死去のあと、秀忠の朱印状が与えられ襲封することになりました。


大坂の役と亀井氏

 慶長19年の冬の陣では亀井豊前守政矩は江戸に居り、徳川秀忠に従って11月23日江戸をたって、伏見で鹿野から上洛した633人の将士(大小姓以下の人数不詳)を指揮下に入れ、本多正信の手に属して秀忠軍の後備えに配置されています。
 翌年の夏の陣では、政矩は4月22日士卒を率いて鹿野から出陣して、このときも本多正信の手に配されたといわれていますが、詳細は伝わっていません。
 ただ5月9日岡山(四条畷市)をたって伏見に至り、7月14日鹿野に帰国のために出発したことが伝えられています。


津和野移封

 1617(元和3)年7月20日、伏見城で政矩は石見国(島根県)津和野に移封を命じられました。政矩は移封を仰せ付けられたことを知らせ、移封の準備をするように命じています。また伏見詰の重臣らは国元の留守居にあてて、因幡・伯耆は姫路の池田新太郎の所領となること、豊前守様(政矩)には石州でお城付きの領地が遣わされること、播州衆は早く移られるので始末を急ぐこと、酒津・青屋・泊に蔵を建て御城の荷物を移すことなどを指示しています。(この荷物の輸送は寛永の中ごろまで20年もかかったといわれます。)
 藩主政矩は移封のとき、父茲矩の木像とともに津和野城に入城したといわれています。この木像は現在も津和野の永明寺の御霊屋にまつられています。
 また政矩の津和野移封には4万3千石の家臣とその家族、商人や職人とその家族など多数の人々が一緒に従いましたので、富み栄えていた鹿野の町は急にさびれることになりました。