【スポットのご案内】
戦国時代の武将:亀井茲矩公(3万8000石)によって築かれた当時の面影が、400年たった現在も残されており、懐かしい風情とあたたかみのある、散策にはぴったりの観光スポット。城下町の風情が残るぬくもりあふれる町です。
城下町らしい、数カ所の「地蔵小道」や「T字路」や「L字路」。一帯を網の目のように走る亀井氏により作られた「水路」や、馬や牛をつなぐために使用したとされる「牛つなぎ石」。
そして、昔栄えていたという町の名残の商家造りの古い建物などが、当時の状態で残されており、当時にタイムスリップしたようなこの場所で当時の歴史を感じることが出来ます。
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山陰にある戦国の城では珍しい内堀、外堀、石垣などが今でも当時の面影を留めています。春には、ソメイヨシノ約500本の桜の花が辺り一面を桜色に染め水面に映し出されます。鹿野城は現在、天守などの建物はなく石垣などの遺構が残されています。戦国時代の山城とは、まさにこの城のことです。天正九年(1544)出雲の尼子勢出身の亀井武蔵守茲矩が鹿野城主となり、父子二代でこの城を拠点に三七年間統治しました。元和三年(1617)二代目政矩は津和野へ移封、城は寛永五年(1628)焼失し、石垣は正保元年(1644)取り壊されました。天守跡からは日本海が眺望でき東西南北全方角を見通せます。
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鳥取市気高町殿にある布勢の清水は、その昔、この地を治めていた鹿野城主亀井武蔵守茲矩が「その清冷さ氷のごとき」と称賛し傍らに涼亭を設け、夏の日には日毎に納涼されたとされている名水です。古くから地域の暮らしに密着し、環境省の「水・土壌環境保全活動功労者表彰」を受賞。また平成20年6月には、環境省認定:平成の名水百選に選ばれました。殿村集落内と近くの県道沿いの数箇所に水汲み場が設けられており、誰でも手軽に名水を汲む事が出来ます。
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鹿野の大工技術は、応仁の乱(1460年代)に京都山城地区から宮大工が戦乱を避けるため鹿野町に来たことがきっかけで伝わったといわれています。藩政時代に入ると、西因幡の大工頭を務めていたといわれています。町の中で残っている古い建物は江戸末期から明治時代のものがほとんどです。建物は「京風千本格子」が多く残り、構造は釘を使用しない「木組み」で建てられています。今でもその宮大工の子孫は「山城屋」という屋号を称しています。
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城下町の中央を鹿野往来が通っています。鹿野祭の屋台が通るメイン通りには、今でも牛つなぎ石や馬つなぎ石が残っています。現在では、藩政時代に設置させれたと言われるものが7個あり、当時、因幡・伯耆の中心地で、交通・商業の要衝の地であったことがうかがえます。
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鹿野城主亀井茲矩の墓所は、武蔵山の「明星ヶ鼻」にあり、墓標は鹿野の城山を望んでいる。墓石には「中山道月大居士」と刻まれているが、これは、天正10年(1582)羽柴秀吉から琉球守を認められ、茲矩が海外雄飛を夢見た「琉球」をしのんでつけられたと言われている。「中山道」とは中国風の琉球の別名である。
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山頂を中心に、左右に山裾を広げたシンメトリックな山容をしており、遠くから見ると鷲が翼を広げて飛び立とうとする姿に見えるたこの名前がついた。また、むかし鷲に乗った神さまが山頂に降り立ったとする伝説もある。 一説に名づけたのは亀井茲矩で、彼はこの附近の土地に仏教に由来する地名を当てたため、インドの霊鷲山にちなんで名づけられたともいわれる。 登山道は南方山麓の安蔵森林公園からの道がある。標高のわりに距離が長いロングコースである。山頂には展望台を兼ねたあずまやがあり、日本海や湖山池の雄大な景色が楽しめる。 里に近く、因幡一円から眺めることのできる雄大な山のため、数多くの伝説がある。大山と背比べをして鷲峰山が勝った『大山の背比べ』がよく知られている。
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亀井茲矩の義理の父で非業の死をとげた武士山中鹿介の菩提寺。茲矩が鹿介の菩提を弔うために現在地に移転させ鹿介幸盛の2字をいただき、幸盛寺と改めた。境内には大イチョウ(高さ34m)がある。山中鹿介は、戦国時代に主君尼子氏の再興を果たしえず、非業の死を遂げた武士であった。鹿介の墓の前に高さ130cmの大きな5輪塔がある。これは慶長19年に亡くなった茲矩の姉の墓である。
「願わくば七難八苦を与えたまえ」と月に祈ったことは有名で、後世まで武士の鏡と尊敬されました。
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当時気多郡司であった紀氏常により獅子舞山に建立され、天正年間に譲伝寺の忠岳和尚(ちゅうがくおしょう)が双樹林山捏槃禅寺(そうじゅりさんねはんぜんじ)と称し再興したと伝えられる。また、池田家の家老日置忠俊が鹿野城主時代に水谷集落へ移転しその後寛永十三年(1626)に現在地に移された。
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光輪寺は天台宗の法楽寺と小別所の宝寿寺を一つにして、鹿野の北方の持西山麓に建立したのが最初で建立時、初代住職の誓正が檀家一同とともに浄土真宗に帰依、寺号を解脱山光輪寺と号した。現在の庫裏の東には貴重な池田輝澄時代の庭園が残る。
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譲伝寺はもと毫王山抱月寺といい、古仏谷にあった。ここから因幡の曹洞宗は広められていった。鹿野城主となった亀井茲矩公は文武両道に秀で、禅の修行にも怠りなかった。この抱月寺は山深く参詣に不便だったので現在の地に移し、譲伝寺と名付け、菩提寺と定めている。寺は明治四三年と大正六年の二度火災にあい、昭和三年に今の本堂が完成した。寺宝には茲矩の将来品があり、このうち孔雀文様刺繍、花禽獣文様刺繍、雲に双龍文様胆は昭和三二年十二月県の保護文化財に指定されている。その他天狗の爪、虎の爪、金欄袈裟、蟹の甲などがある。また、近世中期の面影を残す庭園も本掌衷に残り町指定文化財に指定されている。また、山門を入ってすぐ右側の山頂(弁天山)には茲矩の実父である湯永綱の供養墓がある。
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寛永年間(1624~1644)に伊吹入道正弐西が開いたと伝えられる。現在の地には宝暦十一年(1761)に移転された。本尊の阿弥陀如来は名工春日の作と伝えられる。また、本道裏手の庭園は獅子舞山を借景に築かれており、「つつじ庭園」として知られている。
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文明六年(1474)のころ僧日任が法華経の布教に努め、草庵を建てたのがその始まりで慶長五年(1600)ごろ備前の僧日帳が本長寺と号して再興したと伝えられる。寛永九年(1632)ごろ廃寺となったが、二世日安住職と信者たちによって現在の地に建立されたという。
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弘法大師(空海)が諸国巡業の際、鷲峰山麓の巨桜の霊木の一枝を採り不動尊として桜谷に南之坊を建立した寛弘年中(1004~1012)郡司紀氏郷(きのうじさと)娘「桜姫」が十六歳の時、観音菩薩の示現により導かれ桜谷の桜の木尊像を刻み施無畏山観音寺(せむいさんかんのんじ)を開いた。祈祷知られた寺でもあり、度重なる台風や日照りなどの天災を防ごうと藩から四回も祈祷を命じられている。
【山紫苑からの所要時間・交通アクセス】
お車で約5分・徒歩約45分
「さくら姫物語」
昔、因幡気多郡の郡司として 紀氏郷という人がいた。この人にはさくら姫という美しい姫がいた。ある時、さくら姫は父と都に上がった。 たまたま勝美親王の嫁選びがあり、さくら姫が選べれた。しかし、姫は御仏の道にすがる気持ちが強く勝美親王の縁談に耳を傾けず故郷に帰ってしまった。親王は姫への思いを断ち切れず、わずかの供を連れて姫の後を追った。長旅の末気多郡宿にこられたが、病のため倒れられ、御輿で山を越す途中亡くなられた。さらに世の中の無常を感じた姫は仏道に入り、さくら谷の南の坊にこもった。 ある日、観音様のお告げがあり観音像を刻みこの南の坊に安置して祭った。姫の亡骸は、雲から現れた白衣の天人・天童に囲まれ車に乗せられ、蓮の花びらを散らしながら鷲峰山空高く昇って行った。人々は姫は鷲峰山大明神の化身ではないかと語り合ったと伝えられている。
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天正十六年(1588)、川渕(現在の上町北側)から不思議な光があるので鹿野城主亀井茲矩により探させたところ、渕の底から薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩の三体の仏像が見つかった。茲矩はこの渕を埋め寺を建てて三像をまつったと伝えられる。これが三光院と呼ばれる所以である。やがて、亀井氏の移封とともに荒廃したが、寛永年間に池田輝澄が現在地に建立した。本尊の木造薬師如来立像は県保護文化財。是像高1,4M平安中期の作といわれている。
【スポットのご案内】
創立年代は不明であるが、もとは加知弥神社の摂社で古くから妙見大明神と称し町民から崇敬されていた。素盞鳴尊(すさのおのみこと)を祀り亀井茲矩在城の頃は鹿野城の守り神として祀られていた。社殿の規模は小さいが、その構造や彫刻は近郷に例を見ない精巧なものである。
「鹿野祭」として知られる祭礼は昭和三十二年に県の無形文化財に指定され、御輿、榊、四台の屋台(山車)武者行列、獅子舞とにぎやかにしかの情緒豊かに行われる。獅子舞は昭和二十九年に県の無形文化財に指定されている。祭礼は近年隔年の4月に行われている。
【スポットのご案内】
加知弥神社は中世以降、武将の崇敬が厚く、永禄8年(1565)には、武田高信、田公高清、矢田幸佐などが社殿を造営。また、天正8年(1580)には吉川元治が戦勝を祈念して社領を寄進している。この元春の祈願状と寄進状は県の文化財に指定されている。