司馬遼太郎が「街道を行く」に“人通りはない。通りは水の底のように静かで、ときどき京格子の町屋や、白壁に腰板といった苗字帯刀身分の屋敷などが残っている。ぜんたいに、えもいえぬ気品をもった集落なのである。”と記した町、鹿野。鹿野城跡と城下町の風情が残るぬくもりあふれる町です。
JR山陰本線浜村駅より車で約15分、鳥取市街からは車で約30分という位置にあります。
面積は52.77平方km。その内80%が山林です。南の鷲峰山などに水源を持つ河内川を中心に、末用川、水谷川、浜村川流域に小平地が開け、水田畑地となっています。
年間降水量は鹿野地区で2,213mmですが、河内地区の降水量は3,000mmを越える多雨地となっています。
中世における鹿野町は、因幡地方の軍事・交通上の重要拠点として隣国但馬(山名氏)、出雲(尼子氏)、安芸方面(毛利氏)からの侵入、さらに豊臣秀吉軍の侵入など争奪攻防の的となりましたが、鹿野城主・亀井茲矩(かめいこれのり)の登場により平静を得て、その後は城下町、近隣の物産集積地として発展していきました。元和元年、鹿野城は一国一城令により破壊され、茲矩の子・亀井政矩(かめいまさのり)が津和野に転封されると、これ以降次第に寂れていきました。
明治3年に鹿野村が成立して、明治32年には鹿野村に町制が施行されました。昭和30年には、鹿野町、勝谷村、小鷲河村の1町2か村が合併して鹿野町が誕生しました。そして、平成16年11月に鳥取県東部9市町村(鳥取市、国府町、福部村、河原町、用瀬町、佐治村、気高町、鹿野町、青谷町)の合併で鳥取市鹿野町となりました。
地域には昭和28年から開発が始まった鹿野温泉があり、昭和41年には国民保養温泉地に指定されました。温泉は45度から79度の単純泉で、保養・医療福祉施設などで利用されているほか、温泉付き分譲地などにも利用されています。
鹿野城主・亀井茲矩は、尼子氏の家臣の時代から豪快な武将として数々の手柄をあげ、豊臣秀吉とも意をつうじており、秀吉が「領地として欲しいところはどこか」とたずねたのに対し「琉球(沖縄)をください」と返答し、秀吉は茲矩の大胆な発想を褒め讃えて、「亀井琉球守」と軍扇に書き与えたといわれています。
その後、関ヶ原の役には、東軍(徳川家康方)に属し、その功によって家康から領地の加増を受けますが、狭い日本に飽き足らず、朱印船貿易を行いこれによる利益で領内の開拓、殖産にも力を入れ現在の城下町を築きました。
茲矩の墓石には、「中山道月大居士」と刻まれいます。中山道とは中国風にいって琉球の別名で、遥か海の向こうを夢見た茲矩の壮大なロマンを感じさせます。
また、亀井茲矩とその一族の菩提寺・譲傳寺には、亀井一族ゆかりの品々が納められ、茲矩が文禄慶長の役に従軍したときの将来品(天狗の爪、虎の爪、毛氈など)が寺宝として保存されています。今でも「亀井さん」と呼ばれ、郷土の人達に親しまれ、尊敬されています。
戦国時代、下剋上の世にあって一貫して主君尼子氏のために命を掛けて戦った武将が山中鹿之介(幸盛)です。
鹿之介は、中国地方の有力者毛利氏との争いに敗れた尼子氏を再興するため、近畿、中国地方の各地で転戦しますが、ついには播磨の国の上月城に追い詰められ、捕われの身となり、備中高梁川の渡し場で斬殺されました。
鹿野城主・亀井茲矩は、鹿之介の養女・時子を妻とし、血縁深く、共に戦場を駆け巡った間柄でした。
鹿野城主となった茲矩は、家臣団を備中高梁川に派遣し、鹿之介の遺骨を鹿野に持ち帰らせ、霊を慰めるため寺と墓を建てました。寺の名は鹿之介の別名・幸盛(ゆきもり)から「幸盛寺(こうせいじ)」と名づけられました。
幸盛寺には、鹿之介の墓が建てられた時期に植えられたイチョウの木があり、現在では樹齢400年を超え、高さは40m近い巨木となっています。
鹿野温泉は昭和29年に開発された比較的新しい温泉で、昭和41年に国民保養温泉地の指定を受けました。
泉源は豊富で泉質もマイルド。周辺部は山陰特有の緑豊かな山々に囲まれ、澄み切った空気で満ち溢ており、心身のつかれをほぐすのに最適の場所です。
鹿野町は戦国時代の鹿野城主・亀井氏によってつくられた城下町で、ゆかりの史跡が多く残されています。単に温泉による保養にとどまらず、城下町の風情を感じ取れる温泉地となっています。